我が家の次男ミッキーは、自閉症スペクトラムとADHDの発達障害があります。長男ゲンキも、こだわりが強くマイペースなグレーゾーンBOYです。
次男ミッキーは、3歳から療育センターに通っており、5歳で「自閉症スペクトラム」「ADHD」の診断がつきました。小学校は、特別支援学級在籍です。
長男ゲンキは普通級在籍で通級に通っており、「自閉症スペクトラム」も「ADHD」も傾向ありのグレーゾーンだと感じますが、病院や療育センターには行っておらず、診断もとっていません。
→(「診断&障害名は必要?診断を受けることの意味」)
「発達障害バブル」という言葉を、聞いたことはありますか?
メディアで紹介され、「発達障害」が急速に社会の中で浸透しつつある今、少しでも言葉が遅かったり、少しでも他の子と異なる特徴を持つ子供たち、または生きづらさを抱えた大人たちが病院へおしよせ、発達障害の診断をとっている、その様子がまさに「バブル」だという指摘です。
発達外来や精神科の診察予約は数ヶ月待ち。療育を受けたくともどこも手一杯で、順番待ちをしなければならない現実。2012年の文科省の調査では、6.5%の子供たちに発達障害の疑いがあるとされました。ここ数年で割合が急激に増えており、「発達障害ビジネス」という言葉も出てくるほど、確かにバブル状態というのはうなずけます。
上記の本は、実際に発達障害を抱える当事者や関係者が読むと「よく言うよ」と感じる部分も多いですが、現在の社会情勢を見ると「言われていることも、まあわかるかな」と思います。
私は長男と次男を両方見ているので、「とくに診断を取るほどでもない人に、無理やり発達障害と診断名をつけることはない」と思います。ですが、本当に日常生活にも困っていてこのままでは生きていけないような発達障害の人が「薬を使って生きづらさを和らげる」ことも、必要だと思っています。
要するに、程度の問題です。まあ指摘されているように、「発達障害の定義はあいまいで、診察した医者によって変わる」ことや「血液検査や脳のCT検査などで、客観的に診断できない、問診やチェックリストによる診断」に問題があることは、私も感じています。
少し言葉が遅いだけで受診した3歳児にいきなり「自閉症スペクトラム」や「ADHD」の診断がつき、精神薬を処方されたなど聞くと、発達障害バブル、発達障害ビジネスは非常に危ういと感じます。早期療育は大切ですが、とくに低年齢の子への服薬は慎重になるべきと思います。
次男ミッキーも、多動・衝動性がかなり強い子なんですが、実際に「ADHD」の診断がつくまで2年間の経過観察がありましたし、服薬も6歳まで待ちました。
ひどい医者に当たらないように、受診者や保護者も気をつけることがまずひとつ。実際に診断を受けても、違和感があったらセカンドオピニオン、サードオピニオンを受けたらいいと思います。とくに服薬は、信頼できる医師とでないとおすすめしません。
ですが、「発達障害バブル」が否定的に言われる中で、それでも「発達障害」というこれまで見えにくかった障害が、市民権を得たことは重要で大きなことだと思います。上記の2冊は、「人と関わりたがらない」「落ち着きがない」といった自閉症スペクトラムやADHDのステレオタイプではない発達障害やグレーゾーンの人々を紹介し、「変人」「努力が足りない」と見られがちな人々も、広義で発達障害に当てはまる場合があると書いてあります。発達障害は人によって特性が異なり、チェックリストには当てはまらない人々も多く存在します。それでも、生きづらさは変わりません。
割合が増えているとはいっても、発達障害を抱える人は少数派で、無理解に苦しみ、孤立感を抱いていることも少なくありません。特性によって苦しんでいる人々が「なぜこんなにも自分は苦しいのか」を知ることは、大切だと思います。周囲の人間も「この人達はここが異なっている」と理解して接することで、ずいぶん変わってくると思います。特性を個性と捉えて、受け止めて生きられるようになれば楽になる気がします。
要するに、社会の側の問題というか。
受け取る側の問題も大きいな~とは思います。
また発達障害ではなく、少し成長がゆっくりな子、今はゆっくりに見えても後から追いつく子、もいます。昔は「大器晩成」「遅咲き」などと言い、肯定的に育てていました。「発達障害バブル」とは、そういった多様性を受け入れられない、認められない、社会の器量の狭さが問題なのではないでしょうか。
私自身、周りの子供を見ていて、発達障害が増えている一因に、子供の育ちの場の問題があるのではと感じるので、なんか、ここまで来たら、社会に馴染めない人は「バブル」でもなんでも、どんどん診断名をもらって、社会現象化しちゃって、健常と障害の人の割合がひっくり返るとこまでいっちゃえば、やばい!ってんで、何か変わらざるを得ないかもしれないと期待します。
社会が、受け取る側が変われば、発達障害は障害でなくなるかもしれない。
社会のバリアフリー化を「発達障害バブル」が後押ししてくれるかもしれない。
発達障害がなくとも、学校に馴染めず不登校になる子もたくさんいます。横並びで、みんなせーので同じことをしなければならない、そんな日本の教育が限界に来ているのではないかと、しょっちゅう指摘されていますが、変わりません。実際、英語とかプログラミング教育始める前に、もっと多様な学びの場を用意したほうが、よっぽどいいと思います。
スペクトラムとは、連続体という意味です。
誰だって「時間が気になって仕方ない」「うっかり忘れる」ことはよくあり、どこからが障害で、どこからが普通なのか、誰が決めるのでしょうか。誰にも決められないなら、困っている本人が決めたらいいと思います。困っている人が、困っている原因を知りたいと思うことは当然で、もしも楽になる手立てがあるのなら、使えばいいと思います。それが発達障害の診断を取ることなら、グレーゾーンの人でも取りたいなら取ればいいと思う。障害者として生きるか、個性として生きていくかも、自由だと思います。
もしも将来、ミッキーが一般就労を願ったら、私はできる限りのことはしてあげたいと思うし、逆にゲンキがどうしても会社でうまくやっていけず障害者手帳を取りたいと言ったら、それにも協力するつもりです。
ですがそれは、「本人が楽になる」ことが大前提で、親が楽になるため、先生が楽になるため、医者のためでも製薬会社のためでもない。それが「発達障害バブル」や「発達障害ビジネス」を考える上で、大切かなと思います。